自己紹介
●略歴
- 1945年、大阪で生まれる。
- 四条畷学園を卒業。青年運動や婦人運動に参加。新日本婦人の会四条畷支部事務局長など勤める。
- 1984年、名張市に転居。新日本婦人の会名張支部委員、党伊賀地区委員会婦人・児童部副部長。党中勢伊賀地区委員会の財政部・女性部・自治体部長。党県委員会自治体部長として活動。
- 1986年、名張市議会議員に立候補、当選4回。教育民生、総務財政、建設水道、産業経済の各常任委員を歴任。市民病院調査特別委員、名張市男女共同参画推進懇話会委員、名張市国民健康保険運営協議会委員を務めたほか、環境衛生、青少年問題、議会運営副委員長など多くの役職について活動。
- 1999年、県議選に立候補。その後、市民の悩みや切実な要求の相談相手となって奮闘。すずらん台の近くに不法投棄された産業廃棄物を撤去させる運動の先頭に立ち解決。
- 現在、党中部地区委員。
- 趣味、絵を描くこと、歌うこと。
●私の歩み
幼いころ〜学生時代

1994年10月大阪つるみ緑地にて電動カーの父と
1945年5月7日、太平洋戦争の最中に大阪市で生まれました。ちょうどこの日は、ナチス・ドイツの敗れた日でした。終戦を迎えるまでの日々、母は、大阪への空襲が激しくなり、生まれて三日目に焼夷弾が近くに落ちたときは、乳飲み子を抱えながら「もう駄目だ」と思ったことや、ある日、空襲警報が鳴りいつもの防空壕に入ろうとしたけれど、あまりにも泣き叫ぶ赤子だった私を抱いて外にいたら、その防空壕に爆弾が直撃して「命を落とすところだった」と、今も事あるごとに語ってくれます。戦前戦後、物のない時代に「この子を死なせては」と必死に守ってもらった命だったのです。体が弱く生死の境をさまよいながら、家族とさまざまな人たちの善意に支えられて大きくなりました。
戦地から帰ってきた父は、「戦争のむごさ」とあわせ、「平和で安心して暮らせる社会」の大事さを四人の子どもたちに話しました。大阪の国際興業のタクシー運転手だった父は、労働組合活動を積極的に進め社会の矛盾に取り組んでいました。曲がったことが嫌いで民主的な考えを持っていた父は、私をいろいろな集会や、映画などによく連れて行ってくれました。その帰りには必ずタクシー仲間が寄り合うおいしい食堂に連れて行ってくれたことは今でも忘れられません。父の晩年は、脳梗塞で体が不自由になりましたが、それでも電動の車椅子に乗って新聞の配達やビラの配布をしていた前向きな姿に、私は幾度も勇気付けられました。2003年1月17日、90歳の長寿を全うした父と、今も元気な楽天的な母から多くのことを教えてもらっています。
幼少の頃の既往症のために健康診断を出しても、なかなか就職できなかった高校時代。集団就職で過酷な労働を強いられていた若者や、会社に待遇改善を求めてボコボコに殴られた若者との出会い。働きながら子育てするお母さんのバイタリティーに圧倒され、男女平等の生活求め女性運動に関心を持ちました。矛盾だらけの社会のなかで、父の言う「平和な社会につくりかえる一員」になろうと二十歳で日本共産党に入党したのです。

1963年4月四条畷学園高校の修学旅行で(長崎県平和公園)

1966年4月赤旗まつりにて(大阪服部緑地)
結婚

1969年10月結婚
夫との出会いは、高校卒業後やっと見つけた新建材の会社に勤めているとき、民主青年同盟に入りサークル活動をしていた頃です。「みんなで力を合わせれば世の中を変えることができるし、住みよい社会をつくることができる」と青春のエネルギーを傾けていました。大阪城公園でのメーデー、御堂筋でのフランスデモ、中之島公園を歩いて最寄りの駅まで話し合ったことは懐かしい思い出です。旋盤工として働く彼は現場労働者、いつも油のにおいが浸み込んでいました。宣伝カーに乗るときは、彼が運転手で私はウグイス嬢としてマイクを握りました。彼が我が家に来るときは決まって食事時、そのたびに母は「私のおかずをまわしたんやから」と言っていました。彼より三歳年上の私は、母の反対はありましたが最後にはあきらめて結婚を許してくれました。経済的に余裕がないので五百円の会費制で手作りの結婚式をしました。親にとって何か物足りなかったようですが、私は、経済的に決してよくなかった家庭情況から見ても大勢の知人・友人が150人も集まってくれて祝福してもらったことは親孝行したと今も思っています。
立候補〜議員活動

1994年赤旗まつりにて(東京夢の島公園)
1984年(昭和59年)、大阪に勤める夫、幼稚園・小中学校だった三人の子どもたちとともに自然豊かな名張市に移り住んで23年目を迎えました。総合病院や救急医療、ごみ収集、高い専用水道料金など住んでみると問題のいっぱいある名張市で、主婦の声を市政に届ける議員の要請を受け、1986年、初めての女性議員として市議会に送り出していただきました。日本共産党ならではの県会議員や国会議員との連携もはかりながら、ゴミの減量化と分別収集、非核平和都市宣言の具体化、行政機関に女性問題担当を設置し「男女共同参画宣言」と「条例」設置。学童保育の実施と拡充、乳幼児医療費無料の年齢引き上げ、安心してみてもらえる市立病院の早期実現求める署名運動。住民とともに住環境を守るゴルフ場問題や、不法投棄された産業廃棄物を撤去させる運動など、いつも「住民こそ主人公」の立場を基本に多くの皆さんの知恵と力をお借りして議員活動をすることができました。

1999年4月県議選で不破さんと(桔梗が丘駅前)
名張市議として4期16年をつとめました。1999年には県議選への挑戦と、市民のみなさんの暖かいご支援で貴重な経験をさせていただきました。私が生まれて今日、ここで元気に活動できるのは自分ひとりの力では到底できうるものではありません。影になり日向になって支えてくれた人たちがいたこと。一緒に悩み苦しみ、ともに考え、笑って泣いていけるつながりがあったことが私に勇気を与え背中をおしてくれました。何事も、黙っていては伝わらないことを深く学びました。
どんな人にもその人なりのドラマがあります。私は、これからも前向きに生活を楽しむことができるように、そして自分を好きになる生き方ができればいいなあーといつも思っています。これからもどうぞよろしくお願いします。